福沢諭吉三行書 絹本 「早起きして諸子と散歩」
印は最も多用した雅号でもある三十一谷人
僅かにシミがあります。
―富士市で―
福沢(福澤)諭吉と言えば『学問のすすめ』
江戸幕府が政権を明け渡し、天皇中心の政治になり、世は文明開化
とは言っても封建社会。
そんな時代に、
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
今の世なら当たり前の事ですが、思うだけでなく社会に発表する。
大変な事だったと私は思います。
いかに大きな人間だったかが良く分かります。
ちなみに文献によると身長も当時としては大きい方で173㎝、とあります。
増訂華英通語・西洋事情・雷銃操法・西洋旅案内・条約十一国記・西洋衣食住
兵士懐中便覧・訓蒙窮理図解・洋兵明鑑・掌中万国一覧・英国議事院談
清英交際始末・世界国尽・啓蒙手習之文・学問のすゝめ・ひびのおしえ・童蒙教草
かたわ娘・改暦弁・帳合之法・日本地図草紙・・・ほか多数あります。
諭吉は子供の頃から、迷信や占い、宗教などは信じなかったそうです。
ある日、両親から教えられてた事が本当かどうか試してみようと思い、
便所に行き、神棚のお札と藩の殿様の手紙を交互に使い用を足した後、
拭いて捨てたそうです。
両親の教えでは『そんな事をすると大変な罰が当たる』
ところが、何日たっても何ともない。
1860年咸臨丸でアメリカへ渡りました。これは、日本最初の太平洋横断です。
この咸臨丸には当然ながら艦長の勝海舟も一緒に乗っています。
ところが諭吉は海舟の事を好きになれず、二人は終生仲が悪かったようです。
福沢(福澤)諭吉は『世俗』と言う言葉が好きで号にしています。
『世俗』を、分解して三十一谷人とし、殆どの揮毫に三十一谷人と書いています。
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