インゲンの花
1600年家康が江戸に幕府を開く
隣国、明の黄檗宗 隠元隆琦の名は、当時の日本でも知られていたようです。
中国では、明から清の時代に入る頃です。
長崎市寺町に日本で最古の黄檗宗の寺院と言われる興福寺があります。
幕府の鎖国政策の中、開港の長崎には商人としての唐人も多く住み、唐寺がいくつかありました。
1641年逸然も商い目的に日本に渡ります。
後に僧を志し、興福寺に入ります。
黄檗 逸然禅師
興福寺三代住持の逸然が、中国福建省(当時の明)萬福寺の自身の師である隠元を日本へ熱心に招待しました。
余りの熱心な誘いに、1654年隠元は弟子の独湛性瑩等と共に日本に渡りました。
時に隠元62歳でした。
これが日本での本格的な黄檗宗の始まりです。
その後、隠元は弟子の即非と木庵も日本に招いています。
京都興福寺に入った隠元の元には修行や高徳を授かりに数千人の僧や思想家で大変な盛況になったそうです。
隠元は、自身の年齢の事も有り3年間だけ、の約束で日本に来ました。
しかし、弟子や大勢の人達に懇願され又、1660年幕府より現在の京都宇治に寺地を与えられます。
翌年寺は完成し、隠元の故郷の萬福寺と同じ萬福寺と名づけられました。
隠元の元には、当時の皇族や幕閣、大名、豪族、豪商など大勢の人がたちが競って帰依したそうです。
日本での約20年、あまりにも大きな業績を残しております。
又、書にも優れ黄檗三筆とは言うまでもなく隠元、木庵、即非です。
寛文13年(1673年)黄檗宗,隠元隆琦 82歳寂
独湛は、現在の引佐郡細江町に初山宝林寺を開きます。
その後、黄檗本山の京都万福寺の第四世に就任し最後は又、宝林寺に戻り布教に努めます。
1706年79歳で寂。
野菜のインゲン豆は、隠元が来邦の際、長崎へ持ち込んだのが最初で次第に国内に広がって行ったそうです。
インゲン豆の名前の由来は言うまでもなく日本に持ち込んだ隠元隆琦に由来しています。
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